墨子
墨子(ぼくし)、紀元前480~390年(享年90歳)
戦国時代の思想家であり、技術者であり、墨家(ぼくか)の創始者である。
当時の希少な例として、神を人格神として信じており、この神が私たちに差別のない愛を注ぐように、私たちも他者に差別のない愛を注ぐべきであり、そうすれば混乱した社会が安定すると主張した。このように人を扱う際には、区別せず、皆を平等に大切にし、面倒を見るべきであるというのが『兼愛(けんあい)』であり、このような愛は実際にお互いに利益をもたらすものである(交相利(こうそうり))。
また、神は天子に賞罰を下し、天子はその官僚に命令を下し、官僚は民に命令を下す権限があると述べ、厳格な垂直的な権力構造を肯定し、その地位には他者を差別なく愛することができる者が就くべきだと述べた。また、儒教の親族中心的な愛を批判し、自分に近い人から大切にし、愛するようになれば、その社会は血縁・地縁などで固まって共同体を害するだろうと批判し、儒教の3年の喪や宮廷音楽の儀式も極めて非効率的な無駄だとみなした。
彼の平等主義的な愛は、多くの労働者や農民から多くの支持を得た。また、物資の節約と戦争反対を主張し、安易に戦争できないよう防衛術を発展させ、普及させ、その他の実用技術にも関心を持ち、様々なものを発明したり、言語の重要性を認識し、単語の意味を明確にする作業を行ったりもした。
第一に、相手の自尊心を傷つける無意味な議論はしない。
議論が始まると、両者は元よりも自分の視点に固執しがちである。
実際、議論には何の意味もない。
議論で負けたなら、言うべきことはない。
一方、相手を徹底的に押さえつけて勝ったとしても、何の得があるだろうか。
一時的に勝利を収めるに過ぎず、その快感は長くは続かない。
さらに、議論での勝利は、相手の自尊心を踏みにじった代償として得たものである。
相手の体面を傷つけて得た勝利のために、相手から恨みを買って災難に遭うかもしれない。
相手と議論する際には、2つの結果を考えなければならない。
1つは、無意味な表面的勝利であり、もう1つは相手の好意である。
この2つは、同時に得ることはできない。
それでは、私たちが本当に望むものは何かをじっくりと考えなければならない。
第二に、謙虚な態度で心を開く。
傲慢にならず、謙虚に、他者の批判を喜んで受け入れ、
自分の間違いを正して、広い心で他者の長所を吸収しなければ、自分の長所をさらに向上させることはできない。
実際、これは言うは易し行うは難しという徳である。
傲慢であってはならず、謙遜こそが人生において最も誠実な態度である。
世の中は広く大きく、様々な奇妙な出来事が起こる。
その中で、個人はどんなに力強く、賢明であっても、宇宙の中では小さな塵に過ぎない。
飛ぶ鳥の上にさらに飛ぶ鳥がいる。
自分より優れた人は、常に存在するものである。
第三に、自分の才能を過度に露呈しない。
賢明な人は、人々に光を隠し、愚かさを見せる。
光を隠し、愚かさを示すことは、自分の知能が低いことを示すのではなく、
自分を守り、争いを起こさず、才能をより良く発揮するためである。
非凡さや特別さを求めることは、積極的な人生態度である。
しかし、一人だけで自慢し、周りの環境を無視すれば、
他人と馴染めず、嫌悪感を招く可能性がある。
古来より、人の才能は外に現してはならず、隠すべきだとされた。
この道理を知っていれば、小人の嫉妬を受けずに、事を順調に進めていくことができる。
美人(びじん)は、門外に出なくても、多くの人が会いたいと思う。
自ら露呈しようと努力するよりも、内実を固めよ。
第四に、賢明な人は、時と場所と人を弁える。
利口な人と、利口ぶる人は違う。
利口な人は、自分の利口さを深く埋めておき、必要な時だけ使う一方で、
利口ぶる人は、他人を陥れることを得意とし、
しょっちゅう使い、自分が仕掛けた罠に自分自身が陥りがちである。
実際、利口さは財産である。
重要なのは、この財産をどこでどのように使うかという問題である。
小手先の技を使うと、災いを招きやすい。
第五に、小人(しょうじん)に対処する技術と避ける技術が必要である。
人は大きく分けて、君子(くんし)と小人の2つに分けられる。
君子は公正だが、小人は常に他人を基準に計算している。
常に周囲の大小の利益を見極め、しょっちゅうタダで得ようとする心が強い小人は、
場合によっては、他人を容赦なく中傷したりもするが、
その勢いをどうすることもできないほどである。
したがって、小人との付き合いには慎重でなければならず、干渉するよりも避ける方が良い。
君子の心を掴むことはあっても、小人の恨みを買ってはならないとされている。
小人は、一生の生活を邪魔するほどの存在だからである。
したがって、小人を決して軽んじてはならない。
君子は小人とは友達にはならなくても、小人に対処し、避けることを知っていなければならない。
第六に、お世辞を言う人を近くに置かない。
人々は家庭や社会で、他人の怒りを買わないようにしている。
そのため、ほとんどの人は良い言葉で相手の機嫌を取ろうとし、
聞き苦しい言葉を言って、他人に嫌われることを避けている。
もちろん、良い言葉を言うことが悪いことではない。
ただ、問題は、友達の立場から聞いて気持ちの良い言葉ばかりを言うのであれば、友達としての義務を果たしていないということである。
つまり、欠点があることは分かっていながら、口を閉ざしていれば、真の友達とは言えないということである。
もし、あなたの欠点を褒める人がいれば、それは何か別の思惑があるからだろう。
普段から真心のこもった言葉であなたを叱責し、꾸짖는人がいれば、
その人がまさに人生の師であり、真の友人である。
第七に、自分を空っぽにすることで、他人を入れられる。
傲慢さは、人の体を覆う悪器のように、忠告をしてくれる友人を追い払う。
他人の意見が自分と違うからといって、得意になるのではなく、自分を振り返るべきである。
そうすれば、心を空っぽにして、より成熟することができる。
空っぽにすることによってのみ、他人を入れられることができ、傲慢であれば自分以外には誰も入れることができない。
生活の中で、私たちはいつも無意識のうちに水が満たされた器へと変わってしまう。
しかし、自慢を捨て、心を空っぽにした状態で他人に倣って学べば、
私たちが知らない多くのことを発見するだろう。
謙遜には2つある。地位が低いか能力が不足している時に謙虚であることは、大したことはない。
事業で成果を得て、他者から称賛を受ける時に謙虚であることこそが、
人々の尊敬を集める真の謙遜である。
甘みのある泉は、最も最初に汲み出されて干上がってしまうし、
背の高い木は、最も最初に切り倒されてしまう。
人は自分の長所によって自分の身を滅ぼしてしまうことが多い。
長所を現さないで、短所を補え。
そして、常に謙遜であれ。
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